Chapter 1 はじまりのころ
最初のバスクとの出会いは、
知人の料理人を訪ねて行った小さな旅でした。
フランスとスペインにまたがるこの地の食は、
野性味にあふれ、生命力に満ちていました。
その後、結婚、チーズ留学、出産を経て数年後。
もう一度、食の奥にある文化や人の営みを見つめたいと思い、
まるで呼ばれるように、再びバスクの地へ向かっていました。
はじめての旅からおよそ十年後の、2011年の夏のこと。
家族に承諾を得て、ひとりでの再出発でした。
チーズ留学で過ごしたアルプス山脈とはまったく趣が異なり、
ピレネー山脈のこの地は羊たちの楽園。
山の斜面には白い羊が点々と続きます。
そう、ここは羊のチーズで知られる地なのです。
酪農家やチーズ工房を、人づてに教えてもらいながら訪ね歩き、
暮らしの中に息づく知恵や手仕事、
そしてそれぞれの家庭の“哲学”のようなものを
身体ごと吸収していったように感じます。
やがて旅は、スペイン側のサン=セバスチャンへと続きました。
Chapter 2 黒いケーキとの出会い
美食の街として知られる旧市街では、
細い石畳の小道にバル(立ち飲み屋)がひしめき合い、
夜になると笑い声とおいしい匂いが町を包みます。
ひとりで巡る夜もあれば、
バスクまで会いに来てくれた友人たちと歩く夜もありました。
そんなある日、ふと目に留まったのが
「トルタ・デ・ケソ(torta de queso)」と書かれた看板。
えっ、バルなのにチーズケーキ?
店に入ると、
カウンターにはピンチョスと並んで、
焼き上げられた大きな大きなチーズケーキがずらりと並んでいるではありませんか。
早速、大柄なおじさんに身振り手振りでオーダー。
ひと口頬ばると、焦げ目のほろ苦さが
クリームチーズのコクととろけ合い、
思わず声が出そうになるほどの美味しさ。(ほんとに声がでた!)
あちらでもこちらでも、
ワインとともにケーキを楽しむ人々の姿。
その光景があまりにも自然で、美しくて。
滞在中に何度も通い詰め、
味わいの余韻に浸りながら思いました。
「いつかこのチーズケーキを、自分の手で作ってみたいな」と。
Chapter 3 レシピが生まれるまで
帰国後、あの味を自分の手で再現することにしました。
さっそく試作を始め、チーズを変えると味わいがどう変わるのか。
さまざまなチーズを取り寄せる中で出会ったのが、
デンマークの、ある一社のチーズ。
濃厚な乳質、香りの深さ、
そして乳酸菌由来と思われるほのかな酸味。
故・日本マイセラの前田社長からは、
デンマークの酪農やチーズづくりを支える風土について教えていただきました。
社長のご紹介で、デンマークのチーズ会社の方とも直接お話しする機会を得て、
そのチーズが生まれる風景を、心で感じることができました。
さらにグルテンフリーで仕上げるために、
米粉やコーンスターチ、粉を使わない配合まで、
なめらかな口当たりを求めて試作を重ねました。
そして何より、このチーズケーキの命は「焦げ」。
焦げすぎても、焦げが足りなくてもいけない。
1g単位の配合調整と、数秒単位の焼き加減の見極めを繰り返しました。
オーブンが変われば焼き色が変わり、
チーズのロットによっても微妙に仕上がりが異なる。
ブロックで届くチーズは、テロワールから生まれた“生きもの”なのだと、感じる瞬間がありました。
焼いては試食を重ねる日々。
どれも少しずつ違って、どれも愛おしい。
その“ふぞろい”こそが、本場バスクのバルで見たチーズケーキの美しさだ、
とも感じるようになりました。
ケーキに敷く紙も一枚ずつカットして手作り。
のちに特注で義父に型を作ってもらいました。
余計なものは加えず、素材の味わいをまっすぐに。
ちゃんとした材料を使うとコストもかかる。
だからこそ、開店当初からカオリーヌ菓子店はEC直販を中心にしています。
手間を惜しまず、手仕事でしか生まれない味を届けたい。
その想いが、あのバスクの旅から今も続いています。
Chapter 4 名前を決めるまで
ようやくレシピが形になり、このケーキに名前をつけようと思ったとき、
なかなか言葉が出てきませんでした。
前作は「ブルーチーズのチーズケーキ」。
ブルーチーズを使っていたので、そのままの名前。
でも今回は、黒く焼き上げるとはいえ
“黒焦げチーズケーキ”では誰も食べてくれなさそうだし、
“サン・セバスチャンの…”とつけても、なんだかしっくりこない。
あの地で出会った食、空気、人々の笑顔を何度も思い出して、
たどり着いたのは、とてもシンプルな名前、「バスクのチーズケーキ」。
バスク行きを許してくれた家族への感謝も、
出会った人たちへの感謝も、
すべてを包み込むような響きに感じました。
Chapter 5 幻のチーズケーキ
2011年11月。
焼き上がったケーキをオンラインで販売しはじめ、調布の「もみじ市」にも出店しました。
最初は「焦げてますよ」「ちょっと苦いですね」といった声も多く届きました。
それでも、この味わいをどうしても伝えたい一心で、
ひとつずつ丁寧に焼き続けました。
2012年5月、
『天然生活』(地球丸)でこの旅のことを取り上げていただいたのが、最初のきっかけでした。
そして2013年12月、
『暮らしのまんなか』(地球丸)でdanskoの荒井博子さんが誌面に紹介してくださったことが、大きな転機となりました。
さらに2016年1月、
一田憲子さん主宰『暮らしのおへそ』(主婦と生活社)でご紹介いただいたことをきっかけに、
「知る人ぞ知る幻のチーズケーキ」と呼ばれるようになります。
当時はオンラインでしか手に入らないケーキはまだ珍しく、
画面越しに届く“焦げたチーズケーキ”に、
お客様が驚き、心を動かされていくのを感じていました。
Chapter 6 広がっていく味
2018年ごろになると、あちこちで「バスクチーズケーキ」を見かけるようになりました。
メディア関係の方から「商標登録を考えた方がいいのでは?」
と声をかけていただいたこともありましたが、
私は「この味を好きだと言ってくださる方がいるなら、それで十分」と考えました。
自分の味に誇りをもち、信じて続ける。
その思いが、今の活動にもつながっています。
そんな中2018年11月、
『日経新聞 チーズ通が選ぶ、こだわりのチーズケーキ10選』で3位に選ばれたときは、
店舗を持たずにECだけで続けてきた私にとって、本当にうれしい出来事でした。
その少し後、ローソンの「バスチー」が発売され、全国にブームが広がっていきました。
バスクチーズケーキは、表面を焦がして焼くチーズケーキのひとつのジャンルとして定着しました。
作りはじめた頃は、雑誌で紹介される際には「郷土菓子」と紹介され、
「いやいや、郷土菓子ではなく、もともとはバルのメニューなんです」
と説明していたのですが、
今ではどこの店でも作られる定番の一品、郷土菓子に!
時を経て、人々の手によって受け継がれていく。
郷土菓子って、きっとそういうものなのだと思います。
もし自分で手作りしてみたい方は、
『カオリーヌ菓子店のチーズケーキ』(主婦と生活社)に
家庭用レシピを掲載していますので、ぜひ作ってみてください。
Chapter 7 “味わう”を伝えたい
バスクチーズケーキが話題になり、
おかげさまでたくさんの方に知っていただきました。
でもブームが落ち着いてくる頃、
「人は、どんなときに“おいしい”と感じるのだろう?」と考えるようになりました。
流行や情報のスピードがどんどん速くなる中で、
“心から味わう”ということを、改めて見つめてみたくなったのです。
その思いが今の活動へとつながっています。
その頃から、フランスの伝統菓子をグルテンフリーで作るシリーズをスタート。
第一弾は米粉ガレット・ブルトンヌ、
続いて登場したのが「福俵フィナンシェ」。
手のひらにのる小さなかたちの中に、伝統がつまっています。
Epilogue
これから挑戦したいのは、
日本各地のチーズ職人さんが作るチーズを使った“和のチーズケーキ”。
ヤギのミルクやハードタイプのチーズなど、
まだあまり知られていない素材の魅力を、ゆっくりと伝えていきたいと思っています。
“おいしい”は、流行だけではない。
食を通して、食べる人、作る人、自然がつながっていく。
そんな循環を感じられるものづくりを、これからも続けていきたいです。
これまで変わらずに支えてくださった皆さまに、心からの感謝を込めて。
これからもどうぞ、カオリーヌ菓子店をあたたかく見守っていただけたらうれしいです。